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遊星

98年 作詞作曲 飛鳥涼

 

(5:24から)

【モチーフ】占星術

【テーマ】運命

 

kicks収録、ASKAソロの隠れ名曲。歌詞が字余りのようになっていて、歌いにくそうな箇所がある。

タイトルの遊星とは、惑星の古い呼び名である。つまりこの曲のタイトルは惑星と言いかえてもいい。惑星と言えばASKAのブログ記事でも取り上げられていた。占星術にまつわる、8個だの12個だの。

当ホームページ開設当初から、ASKAは大霊感者であると強く主張してきた。私はASKAのインスピレーションは人知を超えたものだと思っているので、胡散臭さも承知で記事を書いてきた。そしてASKAの7月ブログではそれを認めるかのように、様々な不思議話が披露されているのである。

8月12日の記事「アガスティアの葉」には以下のような興味深い文章が綴られている。

 

僕は、運命論者ではありません。大まかな未来予想図は手渡されて、または描いて生まれてくるのでしょうが、その人の生き方で、別なものに変化してゆくのだと思っています。例えば、机の引き出しの中に、小さな小石を放り込むようなものです。そのまま、じっとしていれば、与えられた人生。しかし、空間は引き出しの大きさの分だけあります。移動するごとに、位置は変わります。

 

重要なことに、運命論者ではない、とある。

運命論者か否か、これは二者択一の問題ではない。実は運命論には3つの階層がある。

①運命など考えたこともないような、運命否定論者

②悪いことも良いことも、あるいは大難を小難に乗り越える自らの努力さえも運命だと信じる、運命論者

③運命というどうしようもない磁力の存在は感じるが、自我の力でそれを無視できる運命否定論者

 

一般的には①と②しか考えられないのだろうが、運命という問題を突き詰めていくと、人は②を乗り越えて③の段階に行き当たるようになっている。釈迦もそうだし、ASKAもそうだ。上記の引用文はまさにこの③の境地を示している。

余談だが、人が③の境地に進むためには必要な要件がある。ASKAの言葉を借りると「ヤキがまわる」必要があるのだ。初めのうちは運命を認識し、日常のあらゆる側面に運命を読み取ろうとする。そうすることで運気はどんどん上がってゆく。そうして運気がMAXまでいくと、それはやがて急降下を始める。それでも運命論者はたいてい、運命を読むことを諦めない。どん底まで堕ちてようやく、〈運命に従っていたんじゃジリ貧だ〉と認識するのである。ヤキがまわらないことには③のステージには立てない人が多い。

要するに、ASKAはただの運命否定論者ではなく、運命の存在を認めたうえで、それを超克すべきだと言っている。この曲の主題はそれである。

 

 

少しは思ってたけど やっぱりここは肌寒いね

望まれてないのは知っていたけど 時間がいつかきっといつかと歩いてきた

望まれてないというのは運命に望まれていない、ということだ。努力を重ね時間がたてば、運命ではない恋愛が運命に変わるのではないか。

 

ふたりは見上げるこの空の星座の中にはいないね

星座の中にはいない、つまり占星術からは外れるような二人であると。運命の恋ではなかった。

 

もっと深くて遠いところで輝いた あの星座が見ている遊星さ

星座の中にはいないが、星座さえも見とれるような、特殊な恋愛である。

 

人は愛を誓うだけの責任なんてどこにもなくて

どんなに愛を誓っても、破局してしまう。

この部分から察するに、やはりこの曲も例の〈桜上水の恋人〉を歌っているのだろうか。

 

私はASKAに聴いてみたいことがある。〈桜上水の恋人〉との別れは運命だったのか?ということ。たぶんASKAはこれを運命と認識していて、この厳しい別れがなければ、歌手として世界を獲ることもできなかった。それもわかっているのだろう。

私の想像はこうだ。運命を認めた上でなお、運命に勝てなかったのかと自分を責め続けているのではないかと。上記の③の立場で言えば、運命は変えられるから。96年の『I’m a singer』にも「運命に勝ちたいじゃない」という歌詞がある。ASKAは、運命に勝ちたかったのだ。

星座よりももっと深くて遠いところで輝いた、という表現に、運命を超克するべき恋愛だったという意味合いが含まれているように思われる。別れは確かに運命だったかもしれないが、別れを選ばない自分もいたかもしれない。この曲に限らず、ASKAはいつだってあの別れを後悔しているのであった。

 

 

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