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WALK

作詞・作曲 飛鳥涼(’89)

歌詞掲載は割愛します。動画に歌詞が入っています。

 

【モチーフ】ラブソング

【テーマ】ファンへの感謝

 

WALKはチャゲアス史上もっとも優遇された曲である。数多くのツアーで歌われ、常に重要な場面で披露されてきた。ASKAがいかに思い入れを持っているか、事実が物語る。セットリストを列挙してみよう。

89年 10years afterツアー トリ

91年 BIG TREEツアー トリ前

93年 GUYSツアー トリ前

99年 電光石火ツアー 一曲目

99年 カウントダウンライブ 一曲目

00年 韓国公演 二曲目

04年 two-fiveツアー トリ

09年 WALKツアー(ソロ) 歌われなかったが、ツアータイトルに(無期限活動休止を発表した時のツアー)

 

代表曲が1,2曲しかない歌手の話ではない。トリを飾れるようなキメ歌が30曲はあるので、チャゲアスはツアーごとに構成がガラリと変わる。その中でWALKのみ扱いが傑出しているのである。特にデビュー25周年のtwo-fiveツアー。それまで直近のアルバム曲をラストにするのが習いだったが,25周年を15年前のWALKで締めている(まぁ、アルバムが間に合わなかったのだけど…)。これらの事実は、この曲に特別な意味を見出さずにはおれない。情熱的なラブソングの形態をとりながら、ポールマッカートニーばりのダブルミーニングの手法で、本当の主張を埋め込んでいる可能性がある。

 

そもそもASKAの詞はいつも意味不明なのだが、WALKは中でもズバ抜けて意味不明なのだ。一筋縄ではなさそうな香りがプンプンする。そこで私はWALKを取り囲むもろもろの状況から逆算して、

君=ファン

を指し、

この曲のテーマは〈ファンへの感謝〉

という仮説に達した。私は15年来その視点でWALKを聴き続けているが、この仮説がもっともしっくりくる。辻つまが合う。

 

この仮説は、歌詞の読解のみでは到達しない。歌詞そのものへの考察へ入る前に、その前提を確認しよう。

 

この曲が出た1989年とは何だったか。

まず、デビュー10周年の節目である。ここで何らかの特殊なメッセージを発信してもおかしくはない。80年代前半は伸び悩んだものの、87年から光GENJIの楽曲に携わり潮目が変わってきた。しかし89年時点でチャゲアスでは大ヒットに恵まれていない。スターになり切れない中で三十路も越し、焦りがあったかもしれない。チャゲアスは実力の割にセールスがついてこないグループであった。なにせヒットしたといわれる『恋人はワイン色』で最高16位、6万枚。そのほかのシングルは軒並み3万枚前後である。それでいてツアーを打てば全国各地で超満員という。

https://www28.atwiki.jp/cavc/sp/pages/335.html

 

もう一つ、89年にはチャゲアスは解散がささやかれていた。光GENJIなどでの作曲家ASKAのブレイクを踏まえ、88年に初めてのASKAソロアルバムを発表。そして89年にはASKAは日本での活動を一時休止し、CHAGE抜きでロンドンでの武者修行が決まっていた。CHAGEは3人組のロックバンドMULTI MAXを結成した。光GENJIの代表曲はみなASKAが書いていたので、そのあたりの「実力差による不均衡」のような印象も加味されたのかもしれない。そのような報道に対してチャゲアスサイドは火消しに追われていたのである。

(なお完全なる主観だが、この頃に解散は考えてなかったんじゃないかと思う。ステージやアルバムを見る限り、この頃のチャゲアスはとてもバランスが取れていた。テレビ番組やステージで二人楽しそうにしゃべってたし。90年代のブレイク後からCHAGEがよそよそしくなるのだ)

 

いずれにせよデビュー10周年という節目を迎え、支えてくれたファンに対して万感の思いがあったのではないだろうか。ASKAはファンをとても大切にする人である。時空間を共に過ごせることの喜びを、幾度となく語ってきた。

「僕たちが皆さんに対してエネルギーを与えているだけではありません。みなさんからもすごいエネルギーを貰いながら歌っています。エネルギーの交換を楽しめるステージをこれからもやっていきたいと思っております」(ビデオ『太陽と埃の中で』より)。

この種の発言をASKAは長年にわたって繰り返している。このセリフはWALKの歌詞で

どんなときも僕の事は君が分かる/心をなくしても/抱きしめるたび歩き出せる

に対応する気がしてならない。抱きしめる=エネルギーの交換。

 

この手の発言をするミュージシャンや役者は数えきれない。ステージに立つ側として想像してみよう。目の前に集まっている何千人の人間たちは、一人残らず「自分を見に来ている」のである。この途方もない感覚は快感の極みだろう。それが本人にとっていかに大きな力となるか。われわれの想像を絶するものがあると思う。

 

 

さて歌詞を見ていこう。89年、WALKに続いてLOVE SONGがリリースされた。両曲とものちに代表曲と評される名曲である。今回はWALKの分析であるが、LOVE SONGがそれを補強してくれるので、部分的に二曲並べて分析してみたい。

まず、二曲ともに1番は当時の音楽シーンに触れている。

(以下、赤字はWALK青字はLOVE SONG

 

 

長い長い映画の途中でメインキャストからも外れている

聴いた風な流行りにまぎれて 僕の歌がやせ続けている

ひどいもんさ生き様ぶった 半オンスの拳が受けてる

いずれも「自分がメインストリームから外れていることに対する焦り」が描かれている。89年といえばバンドブーム真っ盛りで、半オンス程度に軽い歌が世を席巻していた。明らかに実力不足なミュージシャンが流行りにまぎれて出しゃばっていたのだ。

(オーケンは好きだけどこりゃ酷い)

 

(上智大学がどうたら、就職がどうたら。これぞ半オンスの拳)

 

ASKAは奇をてらうことなく実力100%で闘ってきた歌手である。人間離れした歌唱力と剣道日本一の身体能力、そして作曲能力。それが時代に取り残されようとしている。光GENJIの追い風もあった分、余計に焦りがあったのかもしれない。

 

 

心の焦りをかきわけながら ありたっけの呼吸で君へ走った

安い玩具みたいで君に悪い

ここで出てくる「君」は、特定の恋人を想像してもいいのだけれど、やはりわれわれ「ファン」のことだと思いながら聞くとより深みが出てくる。セールスに恵まれない逆境であるけれども、全国会場では熱烈な歓迎を受ける(実際にアルバムの売り上げよりもツアーの動員の方が多いという奇妙な現象さえあった)。これがASKAにとっての強烈なリアリティである。何よりの支えだったのではないだろうか。

 

 

WALKの2番は一気に抽象的になる。おそらくは、音楽活動の話ではないか。

 

 

確かに見えるチャンスをネガに押し込む
ASKAの詞の時間感覚は「カメラで切り取った一瞬」の趣がある(たしか本人が言っていたような)。これは文字通りASKAのカメラ感覚で、ネガに押し込むというのはシャッターを切ると同義だと思う。あとに続く歌詞から察するに、チャンスを取り逃す意味のようである。

 

未来が値札を外してそっとそっと寄り添いかけてきた 
値札を外すとは売上度外視ということだろうか。例えセールス(値札)がついてこなくても、長年に渡って多くの人に愛される(未来が寄り添ってくる)歌を作ることはできる。

 

切り札の出し違いでまた瞳を閉じる
瞳を閉じるは失敗を暗示する。売り出し方を誤りブレイクするチャンスを逃す。例えばチャゲアスのシングルカットのセンスはかなり大胆とよく言われる。6分という大曲のWALKをシングルカットすることにたいしても、かなり議論が重ねられたそうだ。のちの話だが『ID』や『群れ』をシングルにするというのも大バクチだろう。活動を左右する「切り札」な気がする。

 

どんなときも僕のことは君がわかる 心をなくしても 抱きしめるたび歩き出せる
たとえ失敗しても(どんなときも)「君」はおれたちの活動を理解してくれる。抱きしめる=会場でエネルギーを交換させる

 

君が涙に濡れると大切なもの守れそうさ
「君」が僕の歌で泣いてくれること、それは歌手としての矜持をもたらしてくれる大切な瞬間

 

 

さてサビで何度も繰り返されるこのフレイズ

君を失うと僕のすべては止まる 

ASKAにとって失ってはいけないものが、われわれファンなのか。

 

いつも側にいて 勇気づけて

死ぬまで側にいてくれる人は、世界中にたくさんいると思う。

 

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