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君が愛を語れ

 作詞・作曲 飛鳥涼

これから僕等は どうなっちゃうんだろう なんだか大事なこと 伝えられて来たけど
これから僕等は どうなっちゃうんだろう 言葉じゃ愛ばかりを 唱え合って来たけど
聞きとれない愛の歌ばかり 聞かされてた
君のそばで 今日も明日も 君を抱いて いつも眠ろう
すべてが時計回りの中 はじき出された夢の破片で もしも僕が倒れたならば 君が愛を語れ
 
僕のこといつも 歩かせてたのは やっぱり歌じゃなくて 君だったと思う
どうしょうもないくらいの 情けないくらいの 小さな自分のこと 誰もが知った朝
やりきれない愛の歌ばかり 流れていた
君のそばで 今日も明日も 君を抱いて いつも眠ろう
キスをするような気持ちでいい 心の勇気殴りつけて もしも僕が倒れたならば 君が愛を語れ
 
誰の胸の中を 通りぬけて行くの 僕等はいつだって 誰の? 誰の?
 
君のそばで 今日も明日も 君を抱いて いつも眠ろう
いつか寒い五線紙の中 動けなくなる未来を見て もしも君が倒れたならば 愛が愛を語れ
 

【モチーフ】

政情不安

【主題】

隣人愛

 

ASKAソロの白眉。チャゲアスで言うとWALKのような大作で、ライブでは一曲目とか最終盤といった大事なところで披露される。

 

これ書いた頃、世界情勢的なことを自分なりにいろいろ考えててね。書き終わったあとに、あの戦争がはじまっちゃって、妙なものを感じました。本当に素直な気持ちで、これから僕たちどうなっちゃうんだろうっていう、ひとりの人間としての不安みたいなものを歌ってみたかったんです。(ASKA) -1991年Music City8月号より-

 

「あの戦争」とは湾岸戦争のことで、97年のCONCERT TOUR IDではバックの映像に戦車が映し出された。この曲のすごみは、戦争など世界情勢を題材にしながらも「戦争をやめよう!」ではなく「君のそばで眠ろう」と静謐な隣人愛に転換しているところである。

この曲で歌われる愛を既存の言葉に置き換えるならば、隣人愛だと思う。キリスト教で使われる、この隣人愛とは何か。「汝自身を愛するように、隣人を愛せよ」と聖書には記されている。一般的には「汝自身を愛するように」の部分が強調されるが、私が思うには、今の時代は「隣人」のほうが鍵である。なぜかといえばメディアが発達しすぎた昨今、ややもすればリアリティのないインチキな愛に陥りがちだからである。それをイデオロギーという。人と言うのは理屈や文字、数字に弱いもので、あっという間に洗脳されてしまう。

この歌では戦争のときなどに世の中に反動的に沸きあがってくる「エセ人類愛」が題材になっている。戦争のときもそうだし、近いところでは震災のときもそう。大きな災難があると、ぞろヒューマニズムがマスメディアに湧き上がってくるのである。「絆」とか、言葉遊びもいいところだ。本当に命の危険にあった親類・友人を持つ人たちにとって、こんなチャラい言葉はない。

言葉じゃ愛ばかりを 唱え合って来たけど 聞きとれない愛の歌ばかり 聞かされてた
インチキなコピーライティングでは、とても心に響きはしないのである。
 
この曲を通して、胸に響かない「インチキ愛」が批判されている。以下にその表現を抜き出してみよう。
・なんだか大事なこと 伝えられて来たけど
・言葉じゃ愛ばかりを 唱え合って来たけど
・聞きとれない愛の歌ばかり 聞かされてた
・やりきれない愛の歌ばかり 流れていた
 
私が思うには、聞き取れない愛の歌、というのは例えばジョン・レノンのイマジンである。自分ひとりを幸せにするのにも難儀するのに、カミさんひとり満足させられないのに、人類を想うなど何とテーマが壮大なこと。まぁジョンくらいの人ならそう想ってもいいかもしれないが、我々凡人がその境地に立てるわけもない。あんな歌に共感するのは間違ったことだと思う。
大体人類愛とか言うやつに限ってケツの穴が狭いものだ。そういう綺麗ごとを言うやつほど、いざというときに中国人や韓国人を見下す。アフリカの孤児なら愛せるのだけど、お喋り好きな中国人やニンニク好きな韓国人は許せないのである。
 
この歌の「君」とは、特定の恋人よりも、抽象的な隣人のほうがイメージしやすい。
人類愛など下手くそキャッチコピーはやめにして、隣にいるこの人を一所懸命守ろう。それこそが愛じゃないのか?
サビの熱唱はそのようなメッセージと感じられる。
 
誰の胸の中を 通りぬけて行くの 僕等はいつだって 誰の? 誰の?
というフレイズは、自分の愛の歌はいったいどのように人の心に流れているのかと自問している。綺麗ごとに走っていないか、ちゃんと本当の愛を歌えているか。
 
隣人愛と人類愛のもっとも大きな違いは「痛みを伴うかどうか」だ。人類愛は抽象思考の産物だから具体的な実体は伴わないが,隣人愛は文字通り隣の人というナマものを扱っている。 生きた人に愛を与えるのは、ご存知の通り、時に難しいものだ。育児を想像してもらっても良いが、愛を確実に届けるためには、自分を折らなければできないことも多い。自分を折るというのは、抽象的な世界ではなく、具体的な世界=マテリアル・ワールドに生きる我々の宿命である。
出口王仁三郎はこのマテリアル・ワールドを貫く面倒な制約原理を「スサノヲ」と呼んで最大限に讃えている。この世はトラブルの連続であり、一秒も休まず悪が暗躍している。しかしこの悪があるからこそ、善の要素は鍛えられてレベルアップでき、天下泰平「みろくの世」に近づいてゆけるのである。悪の原理「スサノヲ」がなければ、人間は腑抜けになってしまうのだ。
 
ASKAがどう思っているか分からないが、愛に闘いのイメージを重ねる人がいる。自分を折り、傷つきながら愛を崇高なものに高めていく。やすらぎというよりも、魂の救済に近い。ASKAと同じオーラを持つ男、徳永英明もそんな歌ばかり歌っている。「いつまでも探してよ 埃にまみれた愛を」というフレイズの深いこと。そのような人にとって、愛は諸手を挙げて美しいものではないのだ。
 
愛を綺麗ごとにしたくない。自分の背中に生えた翼を一つ残らず折って、地べたに這いずり回ってやっと手にすることができるもの。そしてその過程で見てきた景色は、その人にとって何物にも代えがたい美しい物語なのだ。それが人類愛などという耳障りの良いイデオロギーに走ってしまうと、愛の本質から何万光年も隔たってしまうように思う。
隣人愛とは、このあたりの機微を指しているのではないかと思う。自分のすぐ横にあって、自分を犠牲にしてでも守れる存在。自分を捨ててこそ見られる景色があり、それは信じがたいほどに尊い。自分を犠牲にするという崇高な福祉精神は、本当に愛すべき存在に対してしかできるものではない。しかしイデオロギー相手だと自分を犠牲にはできない。三島由紀夫などイデオロギーに命を捧げる人も沢山いるが、それはまったく美しくない。隣人愛とは、愛のあるべき姿なのだ。
  
隣人愛を体現すると、その愛は隣人から隣人へと伝播してゆく。偉大な文化が西から東へと伝わってゆくように。
もしも僕が倒れたならば 君が愛を語れ
たしかにASKAは倒れたわけだけど、僕らが愛を語ればいいではないか。
いつか寒い五線紙の中 動けなくなる未来を見て もしも君が倒れたならば 愛が愛を語れ
21世紀には五線紙に本当の愛の曲がつづられることはなく、僕らの力も尽きるだろう。でもそのときにはきっと、新しいリアルな愛の形が生まれているはずだ。これがASKAの予言だが、いかに。
 
 
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